BIRTHの章

1


誕生日の高揚は、翌日になっても、小さな王子朗の胸を時めかせていた。

欲しかった外国製の、やっと買ってもらえた色鉛筆。

贅沢にスケッチブックに描き散らし、フィレンツェの紙職人を気取って、彩の乱舞を楽しむ。

ふと、奇妙な感覚が、王子朗の意識に滲みを落とした。

澱んだ沼の水が、一瞬、光に透けて澄む刹那に似て、意識の底から、誰かが何かを訴える声なき声を聴いた気がした。

自動書記のように、王子朗の指は、ある形を繰り返す。

深い碧の同心円、渕の灰、交差して囲む螺旋(ラセン)

・・・・これは、何の符号だろう?

答えは、なかった。

遠くで泣いている子供のような声は、耳を澄まそうとすると、何処ともなく消えてしまい、王子朗自身が、取り残された子供のような心細さに襲われた。

・・・を呼ぼうとした、いつものように・・・誰を?

何かが(えぐ)られたように欠けていた、その輪郭を辿ろうとすると、堪らない寂寥感が行為を阻んだ。

その深い淵を覗く怖さに、王子朗は、感覚を放棄した。

色鉛筆を丁寧に匣に仕舞い込む、その順番通りに虹色を並べる事に没頭して、感覚を忘れようとした。

匣は、祖父から贈られた、子供には似つかわしくない重厚な机の抽斗(ひきだし)に押し込まれ、それきり開けられることはなかった。

匣の存在すらも、12の春、寄宿学校に上がる、その荷物を整理するまで、思い出す事はなかった。




匣を手に、王子朗は躊躇(ためら)った、置いていく事は容易かったし、むしろそれは当然だった筈なのに、何故、狭い寄宿生活の彩にもならないモノを、持ち込んでしまったのか、未だに、戸惑っていた。

あの奇妙な感覚は、時を経て、今、薄い(とばり)に似て、王子朗と共にあった。

まるで、生まれる前から、共生していたかのように、彼の1部であるかのように。

6月、13の誕生日を間近に控えて、気がつくと、2年前に描いた図形を、神経質に指が辿っていた。

意を決して、王子朗は、寄宿舎の机の奥に忍ばせていた匣を取り出し、記憶を頼りに色鉛筆で図形の再現を試みた。

今の王子朗の熟練が、当時は曖昧にしか描けなかった細部を表現する。

・・・これは・・・何なのだろう。

「それ、グラスアイ?」

朗らかな声が降ってきた。

顔をあげると、同室の肖綺の紫がかった灰色の瞳が見つめていた。

継いで、自身の描いた図形に目を落とす、たった今見た、肖綺の虹彩にも似ていた。

・・・グラスアイ?


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