方解石
T
それでも僕等は邂逅した
伴に相似に還ろう
生まれる前の
透明だった世界へ
堕ちる時も一緒だ
石瑛の声が聴こえたような気がして、水晶は、ふと目覚めた。
リネンに包まれて、腕を石瑛の形に投げ出したまま、眠ってしまっていた失態に舌打ちする。
窪みは、まだ温かだったが、石瑛の姿は無かった。
椅子の背に掛けられていたオーバーコートと、古い靴が無くなっているのが目に映ったが、それが何を意味するか、理解するのに少し時間がかかった。
露を含んで曇った窓の外は、天鵞絨の闇だ。
夜着ではなく、シャツに手を伸ばす。
まだ、自分の想像を認めたくはなかったが、貝釦を留める指が、焦りで上手く動かない。
その時だった。
図書館の方角から、パシャリという落水の音がした。
息が詰まった。
聞き違えと思いたかったが、程なく、再度、今度は闇の静けさを破って、明瞭な水音が水晶の耳を打った。
ジャケットに袖を通すのも牴牾しく、革靴に足を突っ込み、紐を踏み付けて蹌踉けながら、外庭に続く扉を開ける。
霙が雪に変わって、世界を変えていた。
その雪も、今は止み、静謐に支配されている。
十六夜の月が、薄く積もった雪上の、蛇行しながら沼に向かう石瑛の靴跡を照らしていた。
「石瑛…」
自分のものとは思えぬ掠れた声が、喉から零れた。
転ぶように雪原を走りだす。
幼い頃、離れの母親を密やかに訪れる時に胸に抱えた不安の比ではない、絶望に近い動揺が水晶を突き動かしていた。
母を亡くした石瑛には、これ以上失うものは無い、現世に彼を強く引き留めるものは、何も無いのだ。
それを追い詰めればどうなるか、何故思い至らなかったのか、水晶は、自身の持てる者としての傲慢と鈍感を冷罵する。
沼の水面が見えた。
月が落ちた明るく波だった水盤に、石瑛の靴が今しも沈みかけていた。
「石瑛! 石瑛!」
悲鳴に近い声が喉から迸った。
重い水飛沫を跳ね上げながら、沼に分け入って靴を掬い上げ、そのまま腰まで浸かりながら、浅い沼を掻き回して石瑛の姿を探す。
居ない。
沈んでいるのか。
軽く息を吸い込み、頭から潜る姿勢を取った時、岸辺に動く気配がした。
視線を投げると、釦が取かけた古いオーバーの前を片手で押さえながら、膝立ちしている石瑛が、信じ難い奇蹟に邂逅しているかのように、菫色の瞳を大きく見開いていた。
水晶は、心の底からの安堵と共に、泥まみれで沼に棒立ちしている自分の姿を客観視して、堪らない羞恥に頬が上気するのを覚えた。
「石瑛、君が…沼に入ったんじゃないかと…思ったから…」
息が上がって、巧く言葉が接げない。
「僕が…酷い仕打ちをしたから、君が…君が、居なくなってしまうんじゃないかって…」
語尾が涙声になっていた。
今更、この醜態を恥じてどうなるものでもない、自分で思っていた以上に、石瑛を愛していた、その息災にひたすら安堵した、それだけの事なのだから。
石瑛は、彫像のように凍りついて、只々、瞳に水晶を映していた。
月下の夢幻ではないのか。水晶が、我を失う程に自分を案じるなど、凡そ在りえない。
阿片の名残の、これは幻視ではないのか。そうでなくては、説明がつかない。
水晶もそれきり黙り込み、石瑛の言葉を待っているようだった。
しかし、何と言えばいいのだ。
夢ならば言えようか、石瑛は、覚えたての外国語を話すかのように、辿々しく感情を説明し始めた。
「…頭を冷やそうと思った…んだ、眠る君を見ていて、…あんな酷い事されてるのに…僕は…それでも…。僕は…君を好きで…赦せないのに、君に…愛されたくて…こんなの可笑しい…どうかしてる…だから…」
切れ切れの言葉から、互いの想いは、既に成就されていたのだと、水晶は知った。
親の罪に幻惑されて、自分の感情すら見失っていたのだと。
緊張を溜息と共に吐き出す。
「じゃあ、何で、靴を沼に…頑なに大事していたのに。」
憎まれ蔑まれていても、水晶を愛している自分の奥底を認め、傍に居続ける覚悟だったとは、今こうして、水晶の純愛を目の当たりにしてしまうと、口にするのが躊躇われた。
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