V



理知的で優秀な軍医だった石瑛の父は、上官である私を庇って戦死した。

傷痍で除隊してすぐに、遺された身重の夫人を訪い、頭を下げ夫君の最期を告げた。

夫人は、テーブルの下で関節が白ばむ程にチーフを握り締めながら、微笑んで聞いていた。

堪らず、私には、生まれたばかりの子供と、産後の肥立ちが悪く伏せっている妻がいるのでと、乳母として屋敷に来て貰えないかと懇願し、援助を固辞する夫人を説得した。

微笑む夫人へ抱いた感情を、同情と錯覚した私の愚かな選択が、不幸と背徳の扉を押し開いたのだ。

屋敷で石瑛を産み、水晶と我が子に乳を与える夫人に、私は、抱いた感情の下劣な正体を悟った。

命と引き換えに私を救った軍医を裏切り、夫人を凌辱した。

そして、幼子を人質に、屋敷と言う牢獄に幽閉し続けたのだ。

正妻の死後、夫人は、水晶の乳離れを口実にして、私の性急な求婚を退け、石瑛を連れ屋敷を去った。

それでも、私の執着が夫人を追わせ、石瑛の為にと無理に金を握らせ、娼婦へと貶めた。

その金の殆どが、教会で回される籠に投げ入れられてしまっている事は、程なく知ったが、それでも幾許かは生活の足しになっているかもしれないと、自身に言い聞かせ、関係を断ち切れないまま、臨終まで夫人を囲い続けた。

私の醜い執着がなければ、いつか夫を忘れ、再婚し平凡な家庭を築けたかもしれない。

石瑛も新しい父を得たかもしれない。

細かな希望さえも、根こそぎ奪ったのだ。

最終的には、石瑛から母親をも…。




紅茶は、ミルクの薄い膜を張ったまま、冷めきっていた。

父の懺悔は、自分勝手な贖罪の為の作り話のようにも感じられた。

僕が時々、虚構を語るように、父が僕を欺かないとどうして言えよう。

黙って茶碗の模様を目で相似る僕に、父は、臨終の際の話を続けた。

夫人は、石瑛の名を、それは夫の名でもあった…呼んで息を引き取ったと。

今は神の許で安らかに居ることだろう。

彼女と石瑛にだけは、その権利がある。

「お前には、間違って欲しくないのだよ。」

唐突に、父は矛先を僕に向けてきた。

同じ血を受け継ぐ僕の背徳を恐れているのか、息の掛かった下働きが、気づいて密告したか。

「僕は、彼を、実の弟のように大事に思っています。昔も、今も、父さんの話を聞いたこれからも」

半分が虚構だったが、真っ直ぐに父の目を見据えて宣言する。

父よりも僕は残忍で、母親より石瑛は哀しい。

父も暫く僕の眼差しを見返し、それから微笑んだ。


玄関先で見上げた空は、霙が雪に変わりそうな気配だった。

父は、石瑛に頼まれものだと東洋の柔らかい紙束を托し、僕には、お前もたまには手紙を書きなさいと、硝子ペンとインク壜が入っているらしい、美しいヴェネチアンマーブルの紙匣を渡した。

「石瑛が、父さんに手紙を?」

心臓が早打ちした。

「この間初めてね、父君の蔵書の修復に使うのだと強請れて、嬉しかったよ。それと、お前が良くしてくれると、そればかり書いてあったよ。」

我知らず、頬が熱くなった。その頬に接吻し、父は帰って行った。

見送り、扉の枠に額をコツンと打ち付けた。

石瑛もまた、僕を偽っているのかもしれない。

何もかもが嘘のように思えてくる。


書庫に引き返すと、身繕いした石瑛が、いつものように、痛んだ蔵書の修復をしていた。

頁はすっかり散されて、剥がした表紙も見返しと分離している。

父からの頼まれ物を渡すと、石瑛は子供のような屈託ない笑みを浮かべた。

釣られて、他愛ない問いが口を突いた。

「何に使うの?」

意外にも、石瑛は友人に応えるように、手を止めて説明した。

「薄く裂いて、破けた頁を接ぐんだ。それから麻糸で綴じ直して…」

「そしたら元通りになるの?」

「うん。」

穏やかに会話していると、自分の犯した罪が、無かったかのように錯覚してしまう。

しかし錯覚だ。

夜になれば、僕は、躊躇わず彼を摘む。

彼は感情を遠くに預けたまま、身体を赦す、しかし心を赦す事は永遠にない。

書物のように、石瑛との関係も、一度総てを壊して修復出来たらいいのにと、子供じみた浅はかな思いが胸を過った。

無邪気に兄と僕を慕い、何処でも付いて回った幼い石瑛と、あの日々からやり直せたら…。

否、戻った所で、僕は同じ背徳を繰り返すだろう。


頁には、石瑛の哀しみだけが綴られるのだ。




石瑛・完


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