水晶

T

奥底を見せない君
眼前の微笑みも
おそらくは虚像
それでも僕は
永遠よりも深く


 

目覚めると、水晶の胸に擁かれていた。


初めての事だった。

行為の後、倦怠い微睡みに墜ちる僕をそのままに、一人身繕いを済ませ、傍らで読書しながら時を過ごすのが、水晶の常だった。

リネンの海に沈みながら、雛鳥を温めるように腕を廻している、眠りの浅瀬で聞いていたのは、彼の鼓動だったのだ。

そうと知ると、胸の奥が波立った。誰よりも傍にいて、誰よりも遠い。

白金色の睫に透ける薄水青の瞳は、僕に向けられているが、僕を見ているのではない。

憎まれているのは承知だった。

この行為に意味があるとしたら、それは、彼の亡き母に代っての復讐、父である公爵への反逆でしかない。

そして、その理不尽な攻撃を甘受しながら、僕もまた、軽蔑と嫌悪で気持を支えてきたのだ。

なのに、今、波立つ胸の奥に沁みていくのは、泣きたい程の切なさだった。

彼を愛してなどいない、愛するにはあまりに傷つけられた。

心も身体も壊れそうに痛めつけられた、彼を赦す事など、一生かかっても出来そうにない。

だとするなら、この感情は何なのだろう。何と名づければ、自分を納得させられるのだろう。


    

教会の片隅に埋まっている薄い墓碑に、戦没で遺体のない父の名に寄り添って、母の名が刻まれた。

細かな秋雨に煙る中、参列者は、牧師の他には、僕と母の永年の庇護者であった公爵だけだった。

「母君との今際の約束だ。私と行こう。」

祈りが終わると、公爵はそう言って、僕の肩を抱いた、母を抱くその同じ仕草で。

「何処へ?」

無意味な問いだった、何処であろうと拒否権はないのだ、母がそうであったように。

「学校だよ。水晶が待っている。」

記憶の底で、幼い水晶が煌めくように笑った。



先代の公爵が作った寄宿学校への道程は、天国よりも遠く思えた。

貴族の嫡子が集う中で、僕だけが異端の鳥となる、それを母が望んだとは思えなかった。

正妻を亡くしてからも、恐らくは身分違い故に、母を迎えようとはしなかった公爵の、これは何の気紛れだろう。

霧雨を含んで足取りが重くなった馬車の窓に、景色が緩く過去へと流れ去っていく。

母と暮らした小さな陋屋に、見知らぬ人間が出入りしているのが、一瞬見えた。

あの家は、僕のものではない、もう帰る場所はないのだ。

荷台に詰まれたトランクの中身、母が僕の教育に使った父の蔵書と、母が縫った少しの着替え、そして、
今、身につけている服だけが、僕に遺された全てだった。

唐突に公爵の手が、髪に触れた。

肩に躍る伸放しの巻き毛に指を差し入れ、優しく梳き、頬の輪郭をなぞる。

母にした仕草だ。背に鈍い嫌悪が走った。

「安心しなさい、学校では、水晶と同じ、私の嫡子としての扱いを要請してある。」

正気なのかと、数秒、公爵の顔を見つめてしまった。

公爵は、柔らかく微笑みかえした、母を見る眼差しだった。

愛人の、しかも血の繋がらぬ子供に、今になって破格の待遇をするのは、母への贖罪、その代償行為だと理解した。


寄宿学校の玄関先には、水晶と学長が待ち受けていた。

当然ながら、記憶に沈む幼い水晶ではない、公爵に似た、支配者の冷酷と傲慢、無邪気が宿る体躯と面差し。

見知らぬ美しい少年だった。

公爵に握手を促されて、水晶は、冷たい指先を絡めて、顔を近づけてきた。

薄水青の瞳に見据えられて、思わず顔を伏せた。破れかけ泥水が滲みた古靴が、嫌でも目に入った。

絨毯の美しい蔓草模様が、靴の見窄らしさを際立たせていた。

今の水晶と僕の対比のようだった。

乳兄弟として育った幼い頃のような関係を、再び結び直す事は不可能なのだと、強く意識させられた。

水晶が制服やら靴やらの新調の話を公爵と交わしているのが、他人事のように聞えた。

学長が加わり、二人が望む僕の処遇を重ねて請け合うと、公爵は水晶を抱きしめ、次いで僕を抱きしめ、去っていった。

馬車に乗り込む時振り返ったのは、水晶を見る為か、僕を見る為か。


「後は僕が…。」

水晶が優雅に学長に宣言し、僕の手を引いた。


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