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シェークスピアを暗唱する生徒の声が響く教室をやりすごし、

「君の紹介は明日だ。」と、連れて行かれたのは、小さく張り出した翼のような南棟の、風切り羽の位置にある二階の部屋だった。

一見質素な、しかし上等な織り布に覆われた寝台の両脇に扉があり、片方は外庭に降りる階段に直に開かれ、もう片方は、小さいながらも、きちんと調度品が揃えられた部屋が続いていた。

壁面には、天井までも続く高い書棚が聳え立ち、並ぶ革装丁の背表紙の金箔捺しが重厚な旋律を奏で、そこここの間隙に嵌め込まれた小さな鉱石標本匣や瑠璃色蝶の展翅匣が、水晶の趣味と美意識とを滲ませている。

「君の部屋だ。」

僕は、無意識に頭を振っていた。

「中等部は東棟の6人部屋と決まっているけど、君は母君を亡くしたばかりだし、一人の時間が必要だし、一人が辛くなる事もあるだろうから、僕が父に願って、書庫を改装させたんだ。」

思いがけず純粋な同情だけが宿る言葉に、水晶は、僕の母親と公爵の関係を知らないのだと察した、水晶の母親が存命中からの長きに渡る…。

一瞬、迷いが大きく振幅した。

甘受したいこの偽の安穏、しかし、秘めて彼が真実を知った時の崩れ落ちる友愛を想像すれば、今ここで暴露してしまった方が楽だという保身。

もうひとつ、水晶を傷つけたかった…のかもしれない。

何も知らない幸せな水晶に、やりきれない口惜しさが沸いたのは、事実だった。

「僕の母親は…」

その時、部屋の扉が叩かれ、下働きが茶の用意が整ったと告げた。

部屋に運び込まれたのは、寄宿舎には似つかわしくない、豪華な午後の茶器だった。

これも水晶の気配りか、それを許されるのは、彼の血筋だろう。

水晶は、優雅な手付きで紅茶にミルクを注ぎ、菓子の匣を開く。

「ベルギーのチョコレートだ、僕の好きな。」と、舌を出して菓子の形を真似てみせた。
 
高級菓子は口の中で上品に甘く溶けた。その芳醇に、無性に泣きたくなった。

何を今更…母と住んでいた陋屋もあの貧しい食事も服も靴も、水晶の父の憐れみで成り立っていた。

僕は娼婦にも劣るただの乞食なのだ。

グラリと視界が揺れた。胃から嫌悪感が吹き出してくる。

異変は、僕より先に水晶が気づいた。

蹴るように椅子を立ち、駆け寄り、ナプキンで吐瀉物を受け止めてくれた。

背を摩りながら、大丈夫大丈夫と繰り返す。問い掛けなのか慰めなのか。

嘔吐の苦しさと誤魔化して、僕は泣いた。

母の死から、初めて泣いた事に気づいた。

水晶は、小さな弟を扱う様に僕を夜着に着替えさせ、眠る迄寄り添い、傍に居てくれた。

薄水青の視線の優しさに、僕は告白する機を失った。

幼い子供の頃の幸せを、束の間でいい、やはり僕は欲していたのだ。

 

翌朝、気分はどうかと、既に身支度を終えた水晶が、僕を起こした。

大分いいと答える僕を、抱き締めるように寝台から降ろし、誂えの服が出来上がる迄の間に合わせにと、去年まで着ていた制服を手際よく僕に着付けた。

「君は、着方が分からないだろうから。」と、また、僕を小さな弟扱いにしてタイを結ぶ。

仕立ての良い柔らかく着古された服は、身体に馴染んだが、心象的にはこの上なく着心地悪い。

靴はあるからと遠慮しようとしたが、水晶は許さなかった。

僕の周知無しに棄てられてしまう予感がしたので、椅子の背に重ね掛けたオーバーとジャケットも、側に置いた靴も、お針子だった母の手によるものだと説明する。

水晶の綺麗な瞳が、単純な驚きで見開かれた。

「母君は、働いていたんだ…」

言葉の底を、その時、僕は理解出来なかった。

感覚を鈍くする準備を、始めていたからかもしれない。


食堂の高い天井に、祈りの詞が反響する。

僕を見る生徒達の視線は、明白な侮蔑を含んでいたが、それは予期されていた事だ。

ここではないどこかに、感情を預けておけば、僕は傷つかない。

感覚の外に薄い帳を降ろし、自分を護る術は、永年の習性になっていた。

午前の授業で、帳の向こうから教師の問い掛けがした。

紗のかかった風景の中で、遠い自分が返答する。

求められるままに詩篇を暗唱する、針仕事する母の傍らで、父の蔵書で遊んでいたように。

綺麗に暗唱出来ると、母はいつも大仰に喜んで、僅かばかりの賃金で買った砂糖菓子をくれた。

教師に促され着席した僕を、隣の席の水晶が、物言いたげに見つめているのに気づいた。

授業が終ったら、軍医だった父の蔵書の話をしようかと、ぼんやり思ったが、それは果たされなかった。

昼休み、蔵書を取りに戻ろうと水晶から離れた僕を、廊下で、見知らぬ下級生が呼び止め、水晶が図書館で待っていると偽の伝言を告げたからだ。

疑いもせず、下級生が指し示した、外庭の沼の畔に建つ図書館に、僕は、一冊の蔵書を抱えて、嬉々として向かった。

中扉を開けると、数人の生徒が待ち受けていて、そこに水晶の姿はなかった。



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