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水晶にとって、僕は玩具にすぎないのに、その屈辱にも関わらず、僕は官能する。

憎しみの中で快感に喘ぐ。

行為を忌避しながら、水晶が触れると、身体は、蕾が綻ぶように、彼の形に自然と開いて受け入れてしまう。

本心、僕は忌避しているのか。

忌避しているのは、行為に水晶の思いが宿っていないから、裏返せば、思いを渇望しているのではないのか。




眠る水晶の顔を見つめていると、それまで僕を律してきた倫理や道徳が、崩れ落ちてくる。

吐き気がするほどの自己嫌悪の奥に息づく、認め難い感情が、剥き出しになるのを意識する。


僕を求めない時の水晶は、人の目があってもなくても、友愛の態度を変えない。

蔵書を巡って穏やかな会話を交わすひと時は、行為が阿片の見せた幻覚ではないかと混乱して来る程に。

苟且とも思えず、これも水晶の本質なのだろうかと、優しい微笑みを窺う。

この優しさのままに抱かれていると信じられたら、どんなにか幸せだろう。

嗚呼、何を夢想しているのだろう、壊れているのか、僕は。

いっそ心が壊れてしまえれば、楽になれるのかも知れない。

笑いたくなった。

実際、少し笑ったのかも知れない、息が水晶の睫を微かに震わせた。

目覚めさせてしまうかと、危ぶんだが、水晶は眠ったままだった。

詰めていた息を少しずつ吐き出すと、回された腕をそっと抜け出した。

朝まで絶えぬように火を入れた暖炉で、部屋は、夏の夕暮れ時の温さに満ちている。

阿片の残り香が甘く漂っているここに居ては、駄目だ。

今の僕の感情こそが、阿片に蝕まれた幻想だ。外気で頭を冷やさなくては。

夜着を被り、久しく袖を通していなかった古いオーバーを羽織る。

古い靴を履くと、馴染みが悪く革が軋んだ。

外庭に続く扉を開けると、雪が降っていた。

今年初めての雪だ。

冷気が熱った頬に気持ち良く、闇に仄かに浮かぶ白金の世界を見渡すと、先程の陰欝が嘘のように燥ぎたくなった。

駆け出そうとして、グシャリと厭な音と共に足許が揺らいだ。

見返ると、手縫いの靴底が割れて、重ねた踵が取れそうだった。

歩き難いが、どうしようもない。そのまま沼まで、蹌踉けながら向かう。

畔に辿り着く頃には、左靴はばっくりと底が剥がれ、右靴も指が覗いていた。

何が可笑しいか自分でも解らないまま、僕は寝転んで声をあげて笑った。 
 
雪が目の中に落ち、溶けて目尻から溢れた。

瞼を閉じると、水晶の微笑みが浮かんだ。

目尻から溢れ続けるのは、溶けた雪ではなかった。

「水晶…」

囁くように名を呼ぶ。

信じられない程の切なさが、夜の空気を震わせた。


水晶を愛している。


水晶から愛される事などありはしないのに、理性では説明出来ない杳い沼の底で、それでも…。




どれ程時が経ったろう、瞼を開けると、いつの間にか雪は止み、切れた雲間から十六夜の月が覗いていた。

身を起こすと、杳い水面に、象牙色に月影が落ちているのが見えた。

靴の残骸を手に立ち上がる。

自覚してしまえば、道は唯一だ。

滅びに至る道なのに、茨が絡み狭く瞑い。歩けば裸足が血塗れになるだろう。

靴の片方を月に投げた。

それは、連れのいない絶望の道行を摸して、ゆっくりと月に飲み込まれて行った。

次いでもう片方を投げる。

沈むのを見届ける事なく、自分の形に刔れた雪面に身を戻した。

誂えた墓のように、雪は柔らかく僕を包んだ。


遠くで、水晶の声が聞こえたような気がする。



             
水晶・完



 

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