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英国庭園の迷路で、我慢できずに泣き出した小さな弟が、唐突に、煌の手首を掴んだ。

それは、普段は忘れている、否、忘れた振りをしようとしている約束を、記憶の底を爪で引っ掻くように呼び覚ました。




祖父の到着を待ちながら、煌は、冷たい窓硝子に額を押し付け、暗い庭に目を凝らしていた。

煌の視野の縁に、背後に佇む人影が差した。

ハッとして振り返る。

病院の廊下には誰も居ない。

疲労からの錯覚かと、向き直る、その窓硝子に、自身ではない年嵩の少年が映っていた。

煌が思わず2歩3歩後退ると、年嵩の少年の影は、、同じ距離を縮めるように、足を踏み出す。

硝子が、透明な膜のように影の形に盛り上がったかと思うと、音も無く、少年が廊下に抜け出て来た。

全身が強張って動けない煌は、自分が恐怖を感じているのだと分析した。

恐怖の源泉は、未知だ。

問わなくてはならない。

『お前は何者だ?』

少年は慇懃に礼をし、顔を上げると、『闇の使い魔だ、お前の弟を迎えに来た…と、言わなくても察しているんしゃないか?お利口な坊ちゃまなら?』と、唇の端だけで微笑んだ。

心臓が一打ちする間に、煌は思考を巡らせた。

『条件は?』

微笑みを浮かべたまま、少年が僅かに首を傾げ、その先を促した。

『弟をただ連れていくだけなら、姿を見せはしないだろう。取引の余地があるんだろう?』

唐突に、少年は笑い出した。

『分かってるじゃないか!俺は、そういう頭のいい子供は嫌いじゃないぜ!』

煌は表情を変えない。

『僕の命か?』

短く聞く。

『そうだ』

笑いながらの短い答えが返る。

短い沈黙。

事故の瞬間、父はハンドルを切って、自身を盾にして家族を護ろうとした、父亡き今、その遺思を継ぐのは自分だ。

『いいだろう』と、煌は条件を飲んだ

少年は、スイッチを切るように笑いを止めた。

『頭がいいと思ったが、所詮は7才の子供だな。死の意味と恐怖を知らない魂を奪っても、面白くもない。』

集中治療室の扉にちらりと視線を走らせ、継いで煌に戻し、話を続ける。

『無垢な魂ってのは、存外甘くないものなのさ。生への執着と絶望と恐怖で、沼田撃ち回って、傷だらけになって、その傷の一つ一つがキラキラ赫く…それがタマンナイんだ。何も分かってない弟より、お前のがマシかと思ったが、お前もまだだ、早すぎた』



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